2017
4/13
桜の季節だからでしょうか。
街でも、電車でもあちらこちらで普段より多くの外国人の姿を見かけます。
この季節になるとコーヒーショップや雑貨屋さんの商品まで薄ピンクに染まり、日本人も旅行者も精一杯に薄ピンクを享受しようとしている感じです。
そんな中、我が家の木蓮が今年は咲きません。毎年こぼれんばかりの大きな白い花を咲かせるのに蕾すら膨らまないままです。
もう50歳を過ぎているその木は、去年の春大輪を咲かせてからさよならもいわずに眠ってしまったのでしょうか。
いつもなら散っていく木蓮を見届けてから迎える桜の季節も、今年はしっくりこないのはそのせいかもしれません。さよならも言わずに消えてしまったものはいつまでも小さな違和感を残してしまいます。
2017
4/6
最近自分のメモが変化していることに気づきました。
キーワードで端的に書くのではなく、文章で残すことが増えました。
そのおかげで、ちょっと間をあけて読んでも言いたいことがわかります。
そしてその代わり、自分以外の誰が読んでもわかってしまうので、キーワードのような暗号的役割を持てなくなってしまいました。文章で残すメモはちょっとくどくて、時々書いてるうちに何を書いているのかわからなくなることも。
例えばこんな風。
「このデータはPDFではなくWORDでないのか」
そういえば。最近は歌のタイトルやなんかでも少し長めのものも目に付きます。
メモがメモでなくなるとき、タイトルがタイトルでなくなるとき、私たちは余白を広げるか文字を小さくするかしなくては、いけないのかもません。
2017
3/30
昼間の陽気に油断して、夕方薄着で外に出たら寒かった。そんな中、私の鼻を沈丁花の匂いがかすめた。きっと実家の玄関前に植えられていたんだろう。春になると玄関先で「あ、春だ。」と教えてくれていた懐かしい匂い。
日もだいぶ長くなり、5時半になってもまだ明るい。(西日本では6時過ぎまで明るいかしら)住宅街では子どもたちの遊ぶ声がまだ聞こえる。
最近、数十年後の物語を書いていた。何を描写するにも手が止まる。もうスマホは使ってないだろうな、まだ満員電車はあるだろうか。この数十年での進歩が、あまりに著しく10年後ですら未来は未知数だ。
でも思う。数十年後の3月も「ああ、日が伸びたね」という会話は変わらないんだろう。
沈丁花の匂いも変わらないでいてほしい。