header

2019
3/7

3時間の自転車ツアーに参加した。バンコクというまちは、迷路のような小道が無数に広がっていた。昼寝をする者、洗濯をする者、レストランの裏で調理用のエビの殻を座り込んで剥く者、まるで映画のような喧騒が断片図のように視界をよぎっていく。バンコクハイになった私たちは次第に時間感覚も体力感覚も麻痺したまま夜のまちへ。バンコクへ到着してまだ24時間も経っていないことがとても不思議に思われた。
翌日は国鉄を使いアユタヤへ。バンコクとは表情の違うこのまちでも自転車を借り、遺跡を周った。私は20年ぶりの再訪で、同じポーズで写真を撮ろうと寝仏像の前で寝転がったが思春期の息子は断固として直立したままだった。
しかし野良犬に囲まれ硬直する息子はまだまだお子ちゃまで、あれだけ嫌がっていたカメラにも気が付くとピースサインで収まっていた。
小5の冬に、母親にバックパックの旅へ連れていかれたという記憶を50年後くらいに思い出してくれたらうれしいなぁ。

2019
2/28

空港の両替所は高いだろうとまだ両替をしていなかったので、街の両替所へ立ち寄った。
両替を自分ですることも息子のミッションだったので、小さな小銭入れに詰め込んだ日本紙幣を取り出して窓口で両替を頼んだ。何か言葉を交わさなくても日本円を渡せばタイバーツに変換された。
住民も利用するボートに乗って下流へ移動。ぎゅうぎゅう詰めの船内、息を止めたくなるような排気ガス。近づく対岸にはまた多くの人がボートを待ち構えており、それを何度か繰り返して目的地へたどり着くのだが、人々の活気に感動し、私は思わず船上で涙がこみ上げる。
メガホンで怒りながらタイ語のアナウンスをしていたオバちゃんが、息子のザックを少し持ち上げいきなり崩れた笑顔をくれた。言葉はわからないが、おそらくがんばれよと言っていた。

2019
2/21

結局ほとんど眠れないまま外が白んできた。窓の外では目覚まし時計のようなけたたましい鳥の鳴き声がする。明るくなって気付いたのだが、宿の横を流れる川は全く透明度がなく緑色だった。
朝食はロビーに置いてある食パンやインスタントコーヒーをお好きにどうぞ、というスタイルでイギリスから来たという女の子と旅情報を交換しながら食べた。英語に興味のない息子は黙り込んだままだった。使った食器は自分たちで洗うルールだったので息子にお願いすることにした。
昨夜は、向けられたカメラを振り払うほど機嫌の悪かった息子も、緑色の川を興味深く観察したりバンコクの地図に見入ったりして、明らかに出発前とは様子が変わってきたが、そこには言及してはいけないのだ。思春期とはそういうものかな、と自分の遠い記憶を紐解きながら再び10キロのザックを背負って街へ出かけた。