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2017
3/9

今朝、芥川龍之介の芋粥を読んだ。
国語の長文問題にも出てきた記憶はあるけど、内容はまったく記憶になかった。
主人公はめったに食べられない好物の芋粥を「芋粥に飽きることがあるのだろうか」と空になった椀を尚もしげしげと見つめる。
そんなに芋粥が好きなのかと周囲の者がたらふくになるほどの芋粥を用意してくれるのだが、主人公は何かトラブルでも起きて食べられないことにならないだろうかととんちんかんなことを考える。―
SNSみたいだ。片思いしていた人のことは知りたいけど、何の障害もなく情報としてやってくるといっぺんに違うものになってしまう。
読み終えて日付を見たら1916年8月とあった。
100年前のストーリーである。

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2017
3/2

お酒を飲んで帰ってきて、最終電車の中から「コンビニでカップラーメンかって帰るぞ」と思っていた。
家について早速湯を沸かし、ひっそりした家で食べるカップラーメンはひどく悪いことをしているような”高揚感”がある。高揚感とは何かアイディアが浮かぶ瞬間だと思う。
先日おやつが何もなくて、おなかを空かせた息子にカップラーメンを食べさせた。
その後食べ終えて出かけていったので容器を片付けようとして驚いた。スープが残してあったから。彼にとってカップラーメンはめったに食べさせてもらえないご馳走なはずなのに、以前、飲むなとしかられたことが染み付いていて、それは残すことが当たり前になっているようだ。無言で残されたスープが私の中でひどく印象的だった。
私はスープをズズズとすべて飲み干しながら、彼の高揚感を親の私が奪っているんじゃないかと少し反省をした。

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